2009年02月27日

(3-1)疱瘡神(ほうそうしん)

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天明3年に出来た疱瘡神の祠 千葉市緑区有吉町・泉蔵寺にて

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畑中雅子さんが書かれた『千葉の歴史夜話』には「疱瘡神」についての記述があり、千葉市内にあるいくつかの疱瘡神が紹介されている。
 疱瘡または天然痘の日本への伝播は6世紀半ばのことで、おそらく中国、朝鮮から持ち込まれたものだろうと思われている。爾来、この病気は、時として朝野に蔓延して猛威をふるい、多くの人を死にいたらしめ、また死を免れたとしても、親からもらったせっかくの美しい顔があばただらけになってしまうとか、失明するという悲劇をもたらした。
 しかしこんにち、私たちの生活において「疱瘡」という言葉は、全く死語と化した感があり、ひとびとが疱瘡の恐怖に怯えた時代があったことも忘れ去られている。それはその予防策である種痘が普及し、種痘を行うことが国民の義務として、国をあげて励行されたからである。

 それでは、房総のあたりでは、いつ頃からこの種痘が行われたのであろうか。
 日本に種痘が伝わって来たのは嘉永2年(1849年)のことで、イギリス人エドワード・ジェンナー(1749〜1823)が天然痘ワクチンを開発してから53年後のことであった。当時、日本は鎖国令により海外諸国に対して門戸を固く閉ざしていたが、それでも種痘は日本に伝わって来た。
 再び畑中さんの著作に戻ると、その年の12月には佐倉藩の子育方役所は素早く対策を立て、村々へ次のような通知書を村々の領民に出したという。
「疱瘡が流行すると、貧富を問わず幼い子供が多数死亡する。しかし近年オランダから種痘という方法が伝来した。佐倉の医師もこの方法を試してみたところ疱瘡は大変軽く済み、江戸にいるお姫様方も軽く済んだので、いよいよ良い方法だと明白になった。藩の医学所の医師が種痘を施すから、希望者は藩の医学所へ子供を連れてきなさい。または、村で相談をして人数を集めれば、医師を差し向けてもよい。医師には薬代を支給するから医師に対するお礼など心配しなくてもよろしい」。
 江戸にいるお姫様方が早速モルモット役に仕立てられてしまったが、これは佐倉藩が種痘に対して強い信頼を寄せたことと、種痘の実施について領民たちを説得しようとする強い意思の表れでもあったと思われる。房総でも医学面に先進的だった佐倉藩は、このようにして、いち早く種痘を開始した。
 しかし、房総に限らず日本全国から疱瘡が消滅してしまうまでには、さらにまた50年の歳月を必要とした。種痘に対する人々の受け止め方はさまざまだったし、藩によっても種痘への取り組みや実施はまちまちだったからである。
 従って、疱瘡は種痘による予防法の移入後も猖獗を極め、流行のたびに多くの人々が死んだ。日本で種痘法が公布され、新生児と10歳の子供の種痘が義務づけられたのは漸く明治42年(1909年)になってからのことであった。

 疱瘡に感染することを恐れ、恐れても感染すれば適切な薬もなく、せいぜい水に浸した手拭いで額を冷やす以外になす術を知らなかった当時の人たちにとっては、神仏を拝んで救いを求めたり、おまじないに頼るのが唯一の方法と言えた。
 疱瘡神はそんな人々のむなしいばかりの気持ちを哀れむかのように、神社やお寺の片隅や路傍の道祖神の横などにひっそりとたたずみ、人々の悲しみの顔や涙を、下から黙って見上げていたのだ。
 また、茨城県稲敷郡桜川阿波にある大杉神社はその所在地にちなんで「あんばさま」の名で親しまれているが、疫病、とくに疱瘡を治癒してくれるということで江戸時代初めから信仰が広まった。中期には関東一円で信仰されるようになり、それに伴って各地に分社が広がった。

DSC02943 006.JPG いすみ市(旧・大原町深堀にある大杉神社)


 
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2009年01月25日

(14)伊勢詣道中図

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DSC01619 026.JPG伊勢詣道中図・千葉県長生村・一松神社蔵・村指定文化財

 この絵馬は天保17年(1836)に、上総国長柄郡一松郷(ひとつまつごう)驚(おどろき)村(現在の長生村・驚)の東間茂左衛門ほか17人が伊勢神宮に参詣したときのものである。
 一行は家内安全、五穀豊穣を祈願するために伊勢参宮をしたというが、絵馬はそのときの道中姿を、絵師であった春渓に依頼して描かせたものだ。
 道中のどの辺りの風景を描いたのかは判らないが、一行の旅装束を見ると、手甲、脚絆、紺の股引き、菅笠といういでたちであり、往時の風俗を知る上で興味深い。
 同時にのんびりと旅を楽しんだ様子も窺えるが、一行が伊勢神宮に旅立った天保7年は、奥羽地方など各地で大飢饉が起こり、一揆や打ちこわしが多発するという不安定で騒然とした時期であったが、そうした様子はこの絵からはまったく想像することができない。

 家内安全、五穀豊穣が一行の目的だったとすれば、わざわざ伊勢まで行くこともなく、この絵馬を奉納した地元の一松神社で十分ではなかったかとの疑問もわく。
 しかしそれを言ってしまうと、江戸時代にあれだけ隆盛を極めた「お伊勢参り」の原因が判らなくなる。
 江戸時代の人々にとって、伊勢参宮というのは旅に出ることの大義名分であった。当時、庶民の移動、特に農民の移動には厳しい制限があったが、伊勢参詣に関してはほとんどが許される風潮であった。また、無許可の旅行であっても、伊勢参宮が目的であることがはっきりすれば、大した“お咎め”もなく通行が許された。
 さらに、「抜け参り」という風習もあって、奉公人たちが主人に無断でお伊勢参りに出かけても、それで咎められることはなかったという。
 狭い閉鎖空間の中にぎっしりと詰め込まれ窒息するような感じの封建社会の日本で、お伊勢参りは唯一の風穴であり、息抜き場でもあったようだ。

 明治2年(1869)京都から東京へ旅立った明治天皇は、そのまま東京に遷都したが、途中伊勢神宮に立ち寄って参拝をした。これによって、日本社会に対する伊勢神宮の立場と役割は一変した。
 これまで、江戸時代の庶民の信仰を集めていたのは、伊勢神宮の外宮であり、祭神は豊受大神であったが、この参拝を機として、伊勢神宮は内宮の祭神・天照大神が主役となった。もちろん、五穀豊穣などという願い事などは放り出され、国体隆昌といったことが祈願される国家神道のお宮になったのである。
 豊受大神の「受」とは食べ物のことなので、この神様が庶民の五穀豊穣の願い事を引き受けたとしても、別におかしくない。しかし、「伊勢」という言葉に感じる私たちの感触は、明治以前と以後とでは全然別物なのである。
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2008年09月27日

(13)伊勢八店の図

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DSC01609 016new.JPG伊勢八店の図
魚屋北渓画・いすみ市岬町長者・天神社所蔵・市指定民俗文化財


●いすみ市岬町長者の天神社にある板絵馬「伊勢八店の図」です。岬町史によれば、絵は伊勢屋という江戸でも有名な呉服問屋の店頭風景とのことです。
 絵馬の裏には奉納者の名前として「伊勢八店・忠兵衛」の名が、また、奉納の時期として、「文政五壬午年」(1822)と墨書されています。

●この忠兵衛なる人物は、今の岬町長者の出身で、おそらく、伊勢屋に奉公し、責任者の地位にまで出世したのでしょう。その忠兵衛が感謝の心を込めて、故郷の天神社に奉納したのが、この絵馬だとおもわれます。

●画面には、伊勢屋の店先に集う多くの美人が描かれており、洗練された色彩感が注目されます。
 作者は魚屋北渓(ととや ほっけい)で、43歳のときの作品です。北渓は葛飾北斎の高弟であり、この作品も北斎の画風を踏襲しているとのことです。
 北渓については不明な点が多いのですが、彼は作品についてもあまり名前を出しませんでしたので、北渓の銘があるこの絵馬は、はなはだ希少な作品であるということができます。

●一方、伊勢屋呉服店ですが、慶長8年(1603)幕府が江戸に置かれ、町として、さらには市場として大きく発展してくると、数多くの伊勢商人が江戸に進出し、伊勢屋を名乗って商売をはじめました。そのため、当時の江戸っ子は伊勢屋の隆盛と乱立ぶりをからかって、「江戸名物、伊勢屋、稲荷に犬の糞」といったそうです。
 そういう訳で、この絵馬でいう伊勢屋は、具体的にどの店を指すのか、これも判りません。
 彼らが主に扱う商品は、伊勢から運んでくる木綿であり呉服でした。
 しかし、彼らが江戸に進出してきたころ、房総の海では紀州や泉州の漁民たちがやってきて、地引網によるイワシ漁を始めていました。その鰯は干鰯(ほしか)という肥料になって伊勢へ、そして広く関西に運ばれ、木綿の栽培に使われました。そして、その木綿が今度は呉服となって、江戸に戻ってきていたのです。

●このような伊勢商人の活躍などによって、江戸時代の中ごろには、江戸の町中で、ほとんどの人が木綿の衣服を着用するようになったといいます。
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2008年07月18日

(12)遭難の恐怖と生還のよろこび

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??????`??.jpg千葉県長生郡長生村:一松神社所蔵

絵は右上に風神がいて、強烈な風を舟に向けて吹きつけています。舟はまさに転覆かという危機に直面しています。
 絵からは強風しか判りませんが、題には「大風雪遭難記す」とありますので、強烈に吹雪いたことが想像できます。
 絵馬からは「明治41年(1908)□月12日」に遭難したことが判りますが、「月」については、もう、文字がかすれてしまい、ちょっと読み取れません。しかし、冬であったことは間違いないでしょう。

 遭難した15人は、命からがら帰港することができ、「大願成就」の絵馬を奉納することとなりましたが、発起人細谷小左衛門ほか15人が連名。絵の方も、大波を受ける舟の上で、助けを求める15人が描かれています。

 背景に大きな山が二つ描かれていますが、右は噴煙を上げる浅間山、左は大人しい富士山です。もちろん、房総の海から、これらの山々を見ることはできません。
 噴火する浅間山というのは、天変地異の象徴だったのか、何か、当時の人々の胸に重苦しくのしかかっていたように思えます。

 「この猛吹雪の中で、舟が帆を張っているのはおかしいではないか」と指摘する向きもあるかと思います。確かに帆でこのような強風を受けることは不可能で、いっぺんに、柱もろとも吹き飛ばされ、舟は転覆してしまうことでしょう。
 しかし、絵馬は写真ではないので、実際の経験をありのままに表現しているわけではないようです。
 帆掛け舟であれば、帆を掛けていなければ、絵にならないと、当時の人々は考えたのかも知れません。

 それにしても、この絵馬は、百年前の房総の小さな村で、人々がなめた辛酸をこんにちに伝えているのです。
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2008年05月27日

(11)八岐の大蛇(やまたのおろち)

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DSC01391 020.JPG素戔鳴尊と八岐の大蛇

千葉県大原町北寄瀬の八坂神社には、八岐の大蛇を退治する素戔鳴尊(すさのおのみこと)の絵馬がある。
 全国の八坂神社の祭神は素戔鳴尊である。そして尊(みこと)の業績をたたえるとしたら八岐の大蛇退治なので、このような絵馬が奉納されていたとしても不思議ではない。
 しかしこの絵馬は、大蛇というよりも龍が描かれ、その傍らに可愛い二人の男女がいるという感じであって、とても、大蛇の恐ろしいイメージはないし、荒ぶる尊(みこと)のおもかげもない。だから最初、この絵馬から八岐の大蛇退治を描いたものであるとはピンとこなかった。奉納がいつだったかも不明である。

高天原(たかまがはら)で姉君である天照大神を相手にさんざんのワルさをした素戔鳴尊は、集団秩序の破壊者として、神々の衆議によって高天原を追放され、実にみじめな姿で、出雲の国(今の島根県)肥の川の上流、鳥髪(とりかみ)という地に降り立った。
 罪をあがなうための品物を多く差し出したにも関わらず、神々の怒りは収まらなかったとみえ、尊はひげを切られ、手足の爪もはがされるという、手荒い仕打ちを受けた。
 しかし出雲にやって来た流浪の尊は、そこで、上流から箸が流れて来るのを見て、人が住んでいると思い、川をさかのぼって行ったが、果たせるかな、そこには老夫婦が住んでおり、尊の姿を見るや、自分たちの直面する窮状を縷々訴えたのであった。
 話によると、この老夫婦にはもともと八人の娘がいたが、毎年、八岐の大蛇がやってきては食べてしまうので、今ではここにいる櫛名田比売(くしなだひめ)ただ一人になってしまった。しかも、また大蛇が来る季節になったので、今度はこの子が食べられてしまうだろう。可哀想なはこの子でござい。ということであった。
 大蛇の風体はといえば、ほうずきのような真っ赤な目をしており、一つの体に頭と尾が八つずつある。その上、その胴体には苔がむし、ひのきや杉まで生えている。しかもその長さたるや、八つの谷、八つの山峡を這いわたるほどで、その腹を見れば、いつも血が流れ出して血膿のようにただれているという。聞くだにおそろしい。
 そこで一計を案じた尊は、八つの酒船を整えさせ、やってきた大蛇に呑ませて酔いつぶし、刀でめった切りにして退治してしまった。
 そのとき大蛇の尻尾から剣が出てきたので、尊はその剣を高天原の姉君に献上した。この剣は「草薙の剣」と呼ばれている。
 その後、尊は櫛名田比売と結婚し、多くの子神をもうけたのであった。
 
 以上が有名な八岐の大蛇の話である。
 相手を酒で酔いつぶしたり、油断をしている虚をついて、討ち取ってしまうというのは、あまりフエアーなやり方とは思えないが、この素戔鳴尊はじめ日本武尊(やまとたけるのみこと)など、「古事記」「日本書紀」の英雄たちには、この手を使って敵を倒したという事例が多い。

 ところで、大原の八坂神社の正面には「牛頭天王」(ごづてんのう)と書かれた額が掛けられている。
 これは神仏習合の名残りである。
 牛頭天王は釈迦が説法をした祇園精舎の守護神でありインドの神である。江戸時代はこの神が素戔鳴尊と同一神とされていたが、お宮の方も祇園社と呼ばれており、神社とも寺院とも判然としないほどに習合が進んでいたという。従って、実際は牛頭天王のほうが祭神としての力が強かったのではないかと思われる。
 しかし1868(明治元)年の神仏分離令以後、祭神も素戔鳴尊となり、神社名も八坂神社となった。

大原・八坂神社に現存する「牛頭天王」の額 DSC01402 031.JPG

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2008年04月21日

(10)海の守り神、神功皇后 

DSC02169 029.JPG いすみ市岬町和泉・飯縄寺にて、神功皇后の絵馬

晴れ先回「卑弥呼・神功皇后論」を作成した直後に、岬町の飯縄寺(いづなでら)を訪ねた。岬町は最近大原町などと合併していすみ市になった。寺は九十九里浜の最南端にある小高い太東岬のふもとにある。
 このお寺で、私は思いがけなく神功皇后の絵馬に出くわしたのであった。塗料は至るところぼろぼろに剥げてはいるが、頭にはちまきを締め、凛々しい立ち姿はまぎれもなく神功皇后であった。
 絵馬に向かって左下には「明治十五年四月再興、当浦地引聯社、三張網」と記されており、地引網に集結した一連の人たちが、大漁を祈念して奉納したものであったことがわかる。
 しかし、先回、紹介した御宿・上布施・八幡神社の神功皇后の絵馬には、皇后の臣・竹内宿禰が誕生直後の応神天皇を抱いていたが、今回の絵馬にそれはない。
 それを眺めながら私は「応神天皇が描かれていないのは、このお寺が神仏習合の名残りから『権現』と呼ばれており、八幡神社ではないからだろう」と憶測してみたりした。

晴れ邪馬台国の女王・卑弥呼は、魏志倭人伝・東夷伝の中で「事鬼道能惑衆」(鬼道につかえ、よく衆をまどわす)人物であると描かれている。
 この鬼道とは一種の原始宗教=シャーマニズムであって、神がかりをした巫女(みこ)が神の言葉を人間に取り次ぐという特徴がある。
 ところで古事記や日本書紀には、神功皇后が神がかりとなり、「皇祖皇宗ノ神霊上(かみ)ニ在リ」と言わんばかりに新羅に攻め込んで行ったという記事がある。
 この神がかりなことが、日本書紀の編者をして、神功皇后を卑弥呼に擬定した根拠の一つではなかったかと思う。
 このとき、神功皇后にとり憑いた神というのは墨江(すみのえ)の神という海の神であった。従って、皇后の軍隊が海を渡っていくとき「海にいる魚という魚はすべて喜々として集まり、船を背負って海の上を運び、追い風はさかんに起こって軍船は波のまにまに進んだ」というのである。快進撃である。
 神功皇后と軍はやがて大阪・七道の浜に帰還するが、そのとき皇后は再び神がかりになり、神託により海の神を住吉の地に祀ることになった。これが住吉大社のはじまりであるとされている。
 このいわれから、この神社は古代大和王権の外交・航海に関連する守り神となるが、遣隋使、遣唐使の守護神であったとも伝えられている。
 その後、住吉大社には神功皇后も祀られるが、これは、これまで巫女として神の言葉を人間に取り次いでいた皇后が、今度は逆に人間の願い事を神に取り次ぐ側に廻ったということである。

晴れ地引網や海上輸送がさかんになった江戸時代から明治にかけて、豊漁の願いをかなえる神として、また海上安全の守護神として、海の神や神功皇后への信仰が広まっていった。
 飯縄寺の神功皇后は、海の幸を願う漁民たちの願いを込めたものだったのだ。
 なお、神功皇后はあくまでも伝説上の人物であって、その実在については断定されていない。


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2008年03月19日

(9)卑弥呼・神功皇后論

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神功皇后/千葉県御宿町上布施・八幡神社蔵・天保9年奉納
晴れ昨年の夏、御宿町上布施の八幡神社前を通りがかったとき、中に多数の絵馬が収納されていることが判り、早速、地元の氏子総代の人にお願いをして、それらの絵馬を写真に収めたが、中に神功(じんぐう)皇后とのちに15代目の天皇とされている応神天皇を描いた絵馬があった。皇后の横で腰をおろし、応神天皇を抱いているのは武内宿禰である。
 各地に点在する八幡神社の祭神は応神天皇である。だからこの神社から応神天皇を描いた絵馬が出てきたことに、私は「なるほど」と納得した。

晴れ戦前の小学校で日本の「国史」を学んだ者にとって、神功皇后は摂政として日本をおさめた女傑として有名である。
皇后の話は「古事記」「日本書紀」の双方に登場するが、その頃の日本は動乱の時代だったということで、この絵馬の皇后も凛々しく、頭にはちまきをしめ、刀を腰に、右手に軍扇、そして左手に弓という重装備のいでたちである。

晴れところで「日本書紀」は、「魏志曰」(ぎしにいわく)とし、注書きの形で中国の「魏志倭人伝」の文章を引用し、邪馬台国の女王・卑弥呼は神功皇后であると述べている。
 「日本書紀」が成立したのは紀元720年であるが、「魏志倭人伝」の記事を日本で最も早く取り上げた書であるということは、邪馬台国に関心のある人たちの間では、よく知られていることである。

晴れ中世に入り、1339年に北畠親房、1688年に松下見林、1716年に新井白石が、それぞれの著作の中で「魏志倭人伝」についてふれているが、卑弥呼については神功皇后であるとの「日本書紀」の考えを継承している。
 しかし、新井白石から約60年後に、国学四大人の一人といわれている本居宣長が現れ、「馭戎慨言」(ぎょじゅうがいげん:からおさめのうれたみごと)という本の中で、「熊襲偽僭説」という説を提起した。

晴れ宣長によっても、卑弥呼は神功皇后ではあったが、実際に卑弥呼を名乗って中国の魏に使いを送ったのは熊襲の王であり、熊襲の王が大和の大王(おおきみ)の身分を偽って中国と交渉したというのが、彼の説であった。
 宣長は、彼の時代の儒者がしきりに中国を礼賛し、無批判に崇拝することに反発し、日本古代への復古思想を説き、国学の思想的な基礎を固めたが、その思想的根拠よりすれば、神国・日本の朝廷・神功皇后ともあろうお方が中国へ使いを送り、貢物を献上し、ペコペコ頭を下げるというような屈辱的なことをなさるはずがなく、また、あってはならないことだと考えたのであった。
 史実を探求するよりは、むしろイデオロギーが先行したものであったと言えるだろう。

晴れその後も卑弥呼は「日本書紀」や「古事記」に登場する様々な人物に擬定されており、はなはだしいのは、産業能率大学の安本美典教授のように、コンピューターを駆使して、卑弥呼は天照大神であると割り出した人もいる。

晴れ卑弥呼が生きたとされる弥生後期、2世紀から3世紀前半の日本には文字がなく、従って記録がない時代であった。
 従って、古代日本の生い立ちについては謎に包まれたままである。しかも最近になり、考古学的な発掘調査がさかんになるにつれて、史実は解明されるどころか、謎を一層深めさせるばかりの感がある。
 日本の古代を記述している「古事記」「日本書紀」についても、古代に分け入れば分け入るほど信憑性に薄れ、史料価値としては常に疑問符がついてまわる。
 こうした中で、卑弥呼を「日本書紀」等の歴代皇室の人物に当てはめてみても、殆ど意味をなさないと私は思う。

晴れなお、終わりになったが、「日本書紀」は、文脈の上から判断して、邪馬台国の所在地を大和におく「畿内説」であった。
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2008年02月07日

(8)シリーズ・地引き絵馬の終了に当って。

 晴れ地引網を描いた絵馬を集めて、過去7回、シリーズをお送りしてきた。房総は地引網で栄えた土地にふさわしく、各地の神社や寺院には、地引網き絵馬が豊富に飾られている。取材を進めるにつれ、今後もいろいろな地引き絵馬が出てくるだろう。
 しかし、このシリーズを見る側のみなさんにしてみれば、絵馬は異なっても、そこに出てくる絵は、全部、同じものに見えるにちがいない。
 つまり2隻の舟があって、こんもりと網があって、浜には裸の男が群がっているというところである。どの絵を見ても同じように見えるのは仕方がないし、さぞ辟易されていることだと思う。そこで、このシリーズをここで一旦打ち切り、今後、何か変わった地引き絵馬が出て来たところで、改めてご紹介することにしようと思う。

DSC01618 025.JPG千葉県長生郡長生村一松神社蔵(部分拡大図) 
 晴れしかし、同じ地引き絵馬でも仔細に見れば、それぞれに特徴もあり、その時代、時代の実・や変化も現れているものである。
 ここに掲げた地引き絵馬は千葉県長生村一松神社のもので、「(3)豊漁祈願と絵馬」の中でご紹介したものの部分拡大図である。
 上総一宮町在住の郷土史家・川城昭一氏によれば、この絵馬は明治28年5月に奉納されたとのことであるが、よく見ると裸の男たちはみな「ちょんまげ」姿である。手前に網の方角を指さしている男の子がいるが、この子はどうやら断髪である。
 明治4年の断髪令といえば、文明開化の象徴であったが、男の髪型に政府が介入したという意味では空前の出来事でもある。
 明治28年は、その断髪令から24年が経過していたが、それもこの時期、房総・九十九里浜の村々では、まだ「ちょんまげ」姿が大手をふっていたという証拠が、この絵馬なのである。

meiji26-1.jpg千葉県いすみ市若山・熊野神社所蔵

 晴れ次はいすみ市(旧・大原町)若山・熊野神社に奉納されている地引き絵馬である。本ブログでははじめての登場であるが、右下部分を拡大した。
 明治13年の絵馬であり、ここでも「ちょんまげ」が主流のようである。網を引く大勢の人々の後ろに「若」と書かれた小旗が立っている。もちろん、これは若山村の人たちが地引漁を行っていることを、近隣の他村の人たちに示していたのである。
 右下の部分に集まった人々には、赤い毛氈で加工された人力車でやって来た人や、山高帽の人、警察官らしい制服・制帽の人、それに着物姿の女性などが集まっている。
 これらの人々は、直接、地引きに携わっているわけではない。しかし、集まっているのである。
 晴れ現在までのところ、私自身はまだ現物を見ていないが、地引き絵馬の中には、いわしを獲る人々の横で、三味線が弾かれ酒宴が催されているというものもある。
 この絵馬の場合、ここに集まっていた人々が、この後、宴を開いたのかどうかは判りようもないが、このように地引網漁と直接関係のない人々が、違和感なく描かれていたところを見ると、このような風景は地引網漁につきものだったのかも知れない。
 同じ絵柄に見える地引き絵馬も、仔細に見ていくと多くの発見があり、それが収集の楽しみでもある。
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2008年01月06日

7・地引網の終焉

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DSC02070 011.JPGいすみ市新田・日月神社蔵/地引絵馬(部分拡大図)
 ダイヤイワシの回遊には食物連鎖や気候の関係によって、豊漁と不漁の循環があった。
幕末から明治初年にかけては豊漁期であったが、明治の中期以降、一時の豊漁と繁栄はあったものの、次第に衰退の傾向を強くしていった。
 資料によると、昭和初期に漁獲量が上向いたが、昭和15年(1940)ごろから、また、不漁期に入り、第二次大戦の終息期には、数統の網が細々と往年の形跡を留めているに過ぎなかった。イワシが房総の浜でギラギラと銀鱗を輝かせる光景は、こうして次第に姿を消していったのであった。


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いすみ市岬町・六所神社の狛犬(土台の部分に網もとの寄贈の文字が見える。地引網最盛期のものであろう)

 ダイヤ大原町史は地引網衰退の原因として次の8つを挙げている。
(1) 地引網の有効漁獲距離は4キロ以内であったが、そこへ改良揚繰(あぐり)網が登場し、魚類を沖獲りするようになった。
揚繰網は地引網と違い敷き網の1種で、船に積んで沖合いに運び、漁をすることが出来る。
(2) 潮流の異変や濫獲によって漁獲量が激減した。一方、網主は自由営業となったため小網主が乱立して共倒れ現象が起きた。
(3) 揚繰網漁の発達にともない、網主と漁夫との結びつきが薄くなった。
(4) イワシ買い入れの条件が弱くなり、抜け買いなども横行。網主と干鰯(ほしか)加工業者との結びつきも弱くなった。
(5) 国有浜地の解放などによって、網主の特権がなくなった。
(6) 教育の普及によって労働の過酷な漁業を敬遠する風潮が強くなり、後継者難となった。
(7) 市場でのイワシの価格が、漁船の機械化、大型化につれて高騰する造船費や、賃金の上昇に見合わなくなり、経営の魅力がなくなった。
(8) 漁場の遠洋化によって、小資本の経営が困難になった。

 大原町史は続けて「経営者、漁法の形態は変わっても、イワシ漁が現在でも、中心漁業であることには変わりがない」と言う。

 ダイヤしかしこれらの理由のうち、(2)から(6)までは、仮にイワシの大群が浜近くまでやって来たとしても、網主や漁夫側の事情によって、捕獲が出来なくなったということにもなる。

 浜近辺にイワシの大群が到来しなくなった理由としては、豊漁と不漁の連鎖を繰り返す過程で、改良揚繰網による沖獲りが進展し、さらに遠洋化と船の大型化、装備の機械化などによって、漁の主力が大資本の手に移行して行ったことが、最大の原因であったと考えられる。
 一方、木綿や藍などを対象にしていた農業も衰退し、干鰯に多くを依存していた肥料の分野でも、化学肥料の登場など、イワシ漁をめぐる需要にもいくつもの変動が起きた。
 以上のようなさまざまな要因によって、地引網は「過去の語り草」と化していったのだ。

 
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長生村一松神社蔵・大正期奉納のもの。このころになると、沖合いでの揚網漁が盛んになる
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2007年12月03日

6.五穀豊穣・浜大漁

千葉県長生郡白子町・地引網発祥の地記念碑
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 ダイヤ 上の写真は、千葉県長生郡白子町剃金(そりがね)の南白亀(なばき)川河口に建つ「地引網発祥記念碑」である。
 「房総水産図録」によると、1661年ごろ(寛文年間)、紀州の西宮久助という漁師が遭難して剃金浦に漂着、地元の長嶋丹後の手厚い加護を受けた。紀州の漁師は故郷に帰るに当たり、謝礼のしるしとして、先進的な熊野の漁法を伝授したというが、これが九十九里浜における、地引網のはじめとされている。

ダイヤ 近世、関西の漁民が数多く、房総に出漁してきたきっかけは、徳川家康が江戸に幕府を開いたために人口が増加し、食品としての市場が成長したことや、木綿や藍の栽培のための肥料である干鰯の需要が高まったからであった。

ダイヤ 地引網は九十九里浜、内房、江戸内湾で行われていたが、これらの操業地に共通する地理的条件はすべて砂浜であった点である。それは地引網の構造が引き網であり、海岸の浅海で操業するものであったから、当然、海底にそって底引きするかたちになった。それだけに岩浜海岸での操業は不可能であった。
 一方、関西から出漁してきた漁民の地引網は、終始、小規模なものに終わったのに対し、房総、特に九十九里浜のそれは規模を大きくしていく。
 その理由は、魚群の沿岸到来を待って出漁するという地引網漁の特性が間欠的であったため、在地に他の仕事を持つ地元民でなければ、漁夫として大量の人員を確保しておくことが、経済的に困難であったことによる。
 それだけに、イワシの漁期だけに出稼ぎにきた関西漁民にとって、大規模化は不可能であった。


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 千葉県いすみ市(旧・岬町)井澤山不動院眺洋寺所蔵

ダイヤ つぎに、九十九里浜に隣接する鹿島灘において、九十九里浜ほどに地引網の規模が大きくならなかった理由としては、九十九里浜漁村は平野部に形成されたため村内の田畑が多く、戸数も多数で、大地主=網主の形成も見られたが、鹿島台地を後背に持つ鹿島灘漁村は、当然、村内の田畑も少なく、戸数も少数にとどまった。また、大地主の形成も見られず、網主といえどもその持ち高は零細であった。
 要するに、九十九里浜では地引網主の経済的基盤が強固であったばかりか、多数の漁夫を村民の中から確保することが可能だったのである。

ダイヤ 地引網が消滅したこんにちでも、九十九里沿岸の鎮守の祭礼では、「五穀豊穣・浜大漁」が、人々によって祈願されている。
 
ニックネーム mic at 12:53| Comment(0) | 日記