2009年02月27日

(3-1)疱瘡神(ほうそうしん)

jj1.JPG
天明3年に出来た疱瘡神の祠 千葉市緑区有吉町・泉蔵寺にて

◎写真は画面をクリックすると大きくなり、右上のXをクリックするともとに戻ります。
◎文字の大きさも「表示」をクリックすれば選ぶことができます。

畑中雅子さんが書かれた『千葉の歴史夜話』には「疱瘡神」についての記述があり、千葉市内にあるいくつかの疱瘡神が紹介されている。
 疱瘡または天然痘の日本への伝播は6世紀半ばのことで、おそらく中国、朝鮮から持ち込まれたものだろうと思われている。爾来、この病気は、時として朝野に蔓延して猛威をふるい、多くの人を死にいたらしめ、また死を免れたとしても、親からもらったせっかくの美しい顔があばただらけになってしまうとか、失明するという悲劇をもたらした。
 しかしこんにち、私たちの生活において「疱瘡」という言葉は、全く死語と化した感があり、ひとびとが疱瘡の恐怖に怯えた時代があったことも忘れ去られている。それはその予防策である種痘が普及し、種痘を行うことが国民の義務として、国をあげて励行されたからである。

 それでは、房総のあたりでは、いつ頃からこの種痘が行われたのであろうか。
 日本に種痘が伝わって来たのは嘉永2年(1849年)のことで、イギリス人エドワード・ジェンナー(1749〜1823)が天然痘ワクチンを開発してから53年後のことであった。当時、日本は鎖国令により海外諸国に対して門戸を固く閉ざしていたが、それでも種痘は日本に伝わって来た。
 再び畑中さんの著作に戻ると、その年の12月には佐倉藩の子育方役所は素早く対策を立て、村々へ次のような通知書を村々の領民に出したという。
「疱瘡が流行すると、貧富を問わず幼い子供が多数死亡する。しかし近年オランダから種痘という方法が伝来した。佐倉の医師もこの方法を試してみたところ疱瘡は大変軽く済み、江戸にいるお姫様方も軽く済んだので、いよいよ良い方法だと明白になった。藩の医学所の医師が種痘を施すから、希望者は藩の医学所へ子供を連れてきなさい。または、村で相談をして人数を集めれば、医師を差し向けてもよい。医師には薬代を支給するから医師に対するお礼など心配しなくてもよろしい」。
 江戸にいるお姫様方が早速モルモット役に仕立てられてしまったが、これは佐倉藩が種痘に対して強い信頼を寄せたことと、種痘の実施について領民たちを説得しようとする強い意思の表れでもあったと思われる。房総でも医学面に先進的だった佐倉藩は、このようにして、いち早く種痘を開始した。
 しかし、房総に限らず日本全国から疱瘡が消滅してしまうまでには、さらにまた50年の歳月を必要とした。種痘に対する人々の受け止め方はさまざまだったし、藩によっても種痘への取り組みや実施はまちまちだったからである。
 従って、疱瘡は種痘による予防法の移入後も猖獗を極め、流行のたびに多くの人々が死んだ。日本で種痘法が公布され、新生児と10歳の子供の種痘が義務づけられたのは漸く明治42年(1909年)になってからのことであった。

 疱瘡に感染することを恐れ、恐れても感染すれば適切な薬もなく、せいぜい水に浸した手拭いで額を冷やす以外になす術を知らなかった当時の人たちにとっては、神仏を拝んで救いを求めたり、おまじないに頼るのが唯一の方法と言えた。
 疱瘡神はそんな人々のむなしいばかりの気持ちを哀れむかのように、神社やお寺の片隅や路傍の道祖神の横などにひっそりとたたずみ、人々の悲しみの顔や涙を、下から黙って見上げていたのだ。
 また、茨城県稲敷郡桜川阿波にある大杉神社はその所在地にちなんで「あんばさま」の名で親しまれているが、疫病、とくに疱瘡を治癒してくれるということで江戸時代初めから信仰が広まった。中期には関東一円で信仰されるようになり、それに伴って各地に分社が広がった。

DSC02943 006.JPG いすみ市(旧・大原町深堀にある大杉神社)


 


ニックネーム mic at 11:35| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月25日

(14)伊勢詣道中図

写真は画面をクリッのクすると大きな画面でご覧になれます。
DSC01619 026.JPG伊勢詣道中図・千葉県長生村・一松神社蔵・村指定文化財

 この絵馬は天保17年(1836)に、上総国長柄郡一松郷(ひとつまつごう)驚(おどろき)村(現在の長生村・驚)の東間茂左衛門ほか17人が伊勢神宮に参詣したときのものである。
 一行は家内安全、五穀豊穣を祈願するために伊勢参宮をしたというが、絵馬はそのときの道中姿を、絵師であった春渓に依頼して描かせたものだ。
 道中のどの辺りの風景を描いたのかは判らないが、一行の旅装束を見ると、手甲、脚絆、紺の股引き、菅笠といういでたちであり、往時の風俗を知る上で興味深い。
 同時にのんびりと旅を楽しんだ様子も窺えるが、一行が伊勢神宮に旅立った天保7年は、奥羽地方など各地で大飢饉が起こり、一揆や打ちこわしが多発するという不安定で騒然とした時期であったが、そうした様子はこの絵からはまったく想像することができない。

 家内安全、五穀豊穣が一行の目的だったとすれば、わざわざ伊勢まで行くこともなく、この絵馬を奉納した地元の一松神社で十分ではなかったかとの疑問もわく。
 しかしそれを言ってしまうと、江戸時代にあれだけ隆盛を極めた「お伊勢参り」の原因が判らなくなる。
 江戸時代の人々にとって、伊勢参宮というのは旅に出ることの大義名分であった。当時、庶民の移動、特に農民の移動には厳しい制限があったが、伊勢参詣に関してはほとんどが許される風潮であった。また、無許可の旅行であっても、伊勢参宮が目的であることがはっきりすれば、大した“お咎め”もなく通行が許された。
 さらに、「抜け参り」という風習もあって、奉公人たちが主人に無断でお伊勢参りに出かけても、それで咎められることはなかったという。
 狭い閉鎖空間の中にぎっしりと詰め込まれ窒息するような感じの封建社会の日本で、お伊勢参りは唯一の風穴であり、息抜き場でもあったようだ。

 明治2年(1869)京都から東京へ旅立った明治天皇は、そのまま東京に遷都したが、途中伊勢神宮に立ち寄って参拝をした。これによって、日本社会に対する伊勢神宮の立場と役割は一変した。
 これまで、江戸時代の庶民の信仰を集めていたのは、伊勢神宮の外宮であり、祭神は豊受大神であったが、この参拝を機として、伊勢神宮は内宮の祭神・天照大神が主役となった。もちろん、五穀豊穣などという願い事などは放り出され、国体隆昌といったことが祈願される国家神道のお宮になったのである。
 豊受大神の「受」とは食べ物のことなので、この神様が庶民の五穀豊穣の願い事を引き受けたとしても、別におかしくない。しかし、「伊勢」という言葉に感じる私たちの感触は、明治以前と以後とでは全然別物なのである。

ニックネーム mic at 16:40| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月27日

(13)伊勢八店の図

●写真は画面をクリッのクすると大きな画面でご覧になれます。

DSC01609 016new.JPG伊勢八店の図
魚屋北渓画・いすみ市岬町長者・天神社所蔵・市指定民俗文化財


●いすみ市岬町長者の天神社にある板絵馬「伊勢八店の図」です。岬町史によれば、絵は伊勢屋という江戸でも有名な呉服問屋の店頭風景とのことです。
 絵馬の裏には奉納者の名前として「伊勢八店・忠兵衛」の名が、また、奉納の時期として、「文政五壬午年」(1822)と墨書されています。

●この忠兵衛なる人物は、今の岬町長者の出身で、おそらく、伊勢屋に奉公し、責任者の地位にまで出世したのでしょう。その忠兵衛が感謝の心を込めて、故郷の天神社に奉納したのが、この絵馬だとおもわれます。

●画面には、伊勢屋の店先に集う多くの美人が描かれており、洗練された色彩感が注目されます。
 作者は魚屋北渓(ととや ほっけい)で、43歳のときの作品です。北渓は葛飾北斎の高弟であり、この作品も北斎の画風を踏襲しているとのことです。
 北渓については不明な点が多いのですが、彼は作品についてもあまり名前を出しませんでしたので、北渓の銘があるこの絵馬は、はなはだ希少な作品であるということができます。

●一方、伊勢屋呉服店ですが、慶長8年(1603)幕府が江戸に置かれ、町として、さらには市場として大きく発展してくると、数多くの伊勢商人が江戸に進出し、伊勢屋を名乗って商売をはじめました。そのため、当時の江戸っ子は伊勢屋の隆盛と乱立ぶりをからかって、「江戸名物、伊勢屋、稲荷に犬の糞」といったそうです。
 そういう訳で、この絵馬でいう伊勢屋は、具体的にどの店を指すのか、これも判りません。
 彼らが主に扱う商品は、伊勢から運んでくる木綿であり呉服でした。
 しかし、彼らが江戸に進出してきたころ、房総の海では紀州や泉州の漁民たちがやってきて、地引網によるイワシ漁を始めていました。その鰯は干鰯(ほしか)という肥料になって伊勢へ、そして広く関西に運ばれ、木綿の栽培に使われました。そして、その木綿が今度は呉服となって、江戸に戻ってきていたのです。

●このような伊勢商人の活躍などによって、江戸時代の中ごろには、江戸の町中で、ほとんどの人が木綿の衣服を着用するようになったといいます。

ニックネーム mic at 13:46| Comment(13) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

 

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

posted by 269g