天明3年に出来た疱瘡神の祠 千葉市緑区有吉町・泉蔵寺にて
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畑中雅子さんが書かれた『千葉の歴史夜話』には「疱瘡神」についての記述があり、千葉市内にあるいくつかの疱瘡神が紹介されている。
疱瘡または天然痘の日本への伝播は6世紀半ばのことで、おそらく中国、朝鮮から持ち込まれたものだろうと思われている。爾来、この病気は、時として朝野に蔓延して猛威をふるい、多くの人を死にいたらしめ、また死を免れたとしても、親からもらったせっかくの美しい顔があばただらけになってしまうとか、失明するという悲劇をもたらした。
しかしこんにち、私たちの生活において「疱瘡」という言葉は、全く死語と化した感があり、ひとびとが疱瘡の恐怖に怯えた時代があったことも忘れ去られている。それはその予防策である種痘が普及し、種痘を行うことが国民の義務として、国をあげて励行されたからである。
それでは、房総のあたりでは、いつ頃からこの種痘が行われたのであろうか。
日本に種痘が伝わって来たのは嘉永2年(1849年)のことで、イギリス人エドワード・ジェンナー(1749〜1823)が天然痘ワクチンを開発してから53年後のことであった。当時、日本は鎖国令により海外諸国に対して門戸を固く閉ざしていたが、それでも種痘は日本に伝わって来た。
再び畑中さんの著作に戻ると、その年の12月には佐倉藩の子育方役所は素早く対策を立て、村々へ次のような通知書を村々の領民に出したという。
「疱瘡が流行すると、貧富を問わず幼い子供が多数死亡する。しかし近年オランダから種痘という方法が伝来した。佐倉の医師もこの方法を試してみたところ疱瘡は大変軽く済み、江戸にいるお姫様方も軽く済んだので、いよいよ良い方法だと明白になった。藩の医学所の医師が種痘を施すから、希望者は藩の医学所へ子供を連れてきなさい。または、村で相談をして人数を集めれば、医師を差し向けてもよい。医師には薬代を支給するから医師に対するお礼など心配しなくてもよろしい」。
江戸にいるお姫様方が早速モルモット役に仕立てられてしまったが、これは佐倉藩が種痘に対して強い信頼を寄せたことと、種痘の実施について領民たちを説得しようとする強い意思の表れでもあったと思われる。房総でも医学面に先進的だった佐倉藩は、このようにして、いち早く種痘を開始した。
しかし、房総に限らず日本全国から疱瘡が消滅してしまうまでには、さらにまた50年の歳月を必要とした。種痘に対する人々の受け止め方はさまざまだったし、藩によっても種痘への取り組みや実施はまちまちだったからである。
従って、疱瘡は種痘による予防法の移入後も猖獗を極め、流行のたびに多くの人々が死んだ。日本で種痘法が公布され、新生児と10歳の子供の種痘が義務づけられたのは漸く明治42年(1909年)になってからのことであった。
疱瘡に感染することを恐れ、恐れても感染すれば適切な薬もなく、せいぜい水に浸した手拭いで額を冷やす以外になす術を知らなかった当時の人たちにとっては、神仏を拝んで救いを求めたり、おまじないに頼るのが唯一の方法と言えた。
疱瘡神はそんな人々のむなしいばかりの気持ちを哀れむかのように、神社やお寺の片隅や路傍の道祖神の横などにひっそりとたたずみ、人々の悲しみの顔や涙を、下から黙って見上げていたのだ。
また、茨城県稲敷郡桜川阿波にある大杉神社はその所在地にちなんで「あんばさま」の名で親しまれているが、疫病、とくに疱瘡を治癒してくれるということで江戸時代初めから信仰が広まった。中期には関東一円で信仰されるようになり、それに伴って各地に分社が広がった。
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